神智学の海

ジャッジ著

1章

1章 神智学と大師たち

 THEOSOPHY AND THE MASTERS

 

 神智学は知識の大洋であり、感覚のある生物の進化という陸地から陸地へと広がっている。最も深い部分は計り知れず、偉大な知性の持ち主たちにその最大限の広がりを与えるが、岸辺近くの浅瀬は子供にも理解できるものである。神智学は「神」についての知識であり、神が万物であり万物の中にあると信じる人たちのためにある。また、自然界についての知識であり、キリスト教の聖書に見出せる次の言説を受け入れる人のためにある。つまり神は計ることや発見されることがあり得ず、神の幕屋の周りは暗闇があるという言説を。たとえ神智学が「神」という名称を由来として持ち、一見して宗教だけを包含しているもののように見えるとしても、科学を無視はしない。それは科学の中の真の科学であり、それゆえ智慧の宗教と呼ばれているからだ。どんな科学も、目に見えようと見えまいと、自然界のいかなる一部をも無視しては完成できない。そして宗教は、ただ単に啓示によるものと考えられ、それを支配する事物や法則は妄想にほかならず、進歩の敵、人が幸福へ向かって進むのを邪魔する妨害物として顔をそむけられるのである。科学と宗教のどちらも受け入れて、神智学は科学的な宗教であり、宗教の科学である。

 神智学は人間が考え出した、あるいはでっち上げたドグマや信仰ではなく、自然と人間の物質的、アストラル的、霊的、知的構成要素の進化を支配する法則の知識なのだ。けれども今日の宗教は、人が作った一連の教理(ドグマ)であり、その公表されている道徳的価値観には科学的な根拠がない。科学はこれまでのように、目に見えない世界を顧みず、人間の内的な知覚機能の一群が存在することを認めそこなっているうちは、目に見え、触知できるものの中にある広大な、そして実在する経験の分野から締め出されてしまっている。だが神智学は知っている。全体は可視のものと不可視のものから成り、外的なものと、未来に一時的にしか存在しないだろう物体とを理解することは、内外ともに自然界の真相を把握することになる、と。したがって、神智学それ自体が完成したもので、不可解な謎はどこにもないように見える。神智学はそのボキャブラリーから、符合する言葉に翻訳する。そしてすべてのものとすべての出来事の中の法則の影響力を、歓迎する。

 人が不死の魂を持っているというのは人類の通念である。このことに神智学は、魂こそが人であると付け加える。そしてさらに、万物には知覚力があり、広大に並んだ物体と人の列も、偶然つくられた単なる原子の寄せ集めではなく、法則を進化させる法則はないけれども、最小の原子にまで細分化してゆくとすべては魂と霊であって、それは全体に備わった法則の支配下で永遠に進化している。そして古代の人々とまさしく同じように、神智学は次のことを教える。それは、進化の道筋は魂が演じる劇であって、自然界は他ならぬ魂の経験のためだけに存在していて、他の目的はないということだ。神智学徒はハクスリー教授の次のような主張と同意見である、つまり、私たちの知性がゴキブリより勝るのと同じように、私たちより知性が勝る存在が宇宙の中にいないはずはなく、その存在は物事の自然法則の統治に積極的に加わる。さらに師匠たちから得た確信の光で遠くを照らし、神智学徒が付け足すことは、このような知的存在はかつて人間であって、私たち全員のように前にあった他の諸世界から来たことと、しかるがゆえに多彩な経験を積んだためそうすることが可能であったということだ。したがって私たちはこの惑星に現れた時に初めて出現したのではなく、この太陽系が凝結する以前の昔に、そのいくつかは消滅した天体が成す、他の恒星系において、長く果てしない活動と知的認識の行程を歩み続けたのだ。それゆえ、この進化の体系の果てしなき広がりは、私たちが今いるこの地球が、どこか別の惑星の進化と活動の結果であり、そのどこか別の惑星は大昔に滅び、そのエネルギーが地球の存在のために移されて来て、その地球にどこか別のより古い世界から住人たちが、運命づけられた物質界での役目とともに移って来た、ということを意味する。そして金星のようなより輝かしい惑星は、よりいっそう進歩した存在たちの住む所であり、彼らはかつて私たちと同じくらい低い段階にいたが、今や私たちの理解力にはわからないほどの栄光の高みに達した。

 宇宙の中で最も高い知性を持った存在である人間には、そうであるが故に、友人ではなく、ずっと継続してより進歩していない人たちの進歩を見守っている兄たちの長い列があった。兄たちは累代の試みと経験を保持し、地球かあるいは他の天体の人類の成長しつつある知性を、魂の運命に関係する偉大な真理へと引きつけてそれについて熟考させる機会を、ずっと探し求めている。これらの人類の兄たちは、あらゆる分野で得た自然界の法則の知識も保持しており、周期の法則の許す時にはいつでもそれを人類のために使う用意ができている。彼らは世界のどこにいようとも、常に体で存在し、全員が互いに知り合っており、そして全員が実にさまざまな方法で人類のために働いている。ある時期に彼らは人々によく知られており、社会組織と徳と国々の成長が許せばいつでも、普通の人たちと交わるのである。というのは、もし公然と現れて至る所に知れ渡ると、ある人たちに神として崇められ、別の人たちには悪魔として追われるだろう。彼らが現れる前述の時期には、そのうちの一部が人々の統治者となり、一部が師匠となり、ほんの少しが偉大な賢者となる。その間、残りの彼らは最も進歩した肉体をまとっていること以外は相変わらず無名のままである。彼らが自らをこの時代の文明において著名にする、つまりほとんど完全に金銭と名声と栄誉と人間的魅力に基づいた有名人にすることは、最後にそれを覆すことを考慮した上でのことであろう。彼らのうち一人が以前に言ったように、この時代は「過渡期である」。それは思考、科学、宗教、政治、社会の機構や体系のことごとく変わる、そして人々のマインドがひとえに次のような状態への変化の準備をする時なのだ。その状態とは、これらの人類の兄たちが私たちの目に実際の姿を明かすのにふさわしい地点まで、人類を進歩させられる状態である。彼らはまさしく、時代から時代へたいまつを運ぶ、真理の火の運び手と呼べるかもしれない。あらゆるもの、あらゆる存在を彼らは精査する。人の内部深くの性質と、その人の力と運命がわかり、その人の生まれる前の状態と、その人が肉体の死後どんな状態になるかがわかる。そして国々の興るのを助け、古代人の大きな功績を見、悲しくも盛衰の周期的法則にあらがえぬ人々が衰退するのを見てきた。さらに芸術、建築、宗教、哲学が全世界的に滅亡してしまうような大変動の間、彼らはそのすべての記録を、人の手からも時の手からも破損されない安全な場所に保存した。彼ら独自の階層の中で熟達した霊的存在が、人の本質とマインドの目に見えない領域を、綿密に観察して、その観察を記録し保存してきた。彼らは、物質のベールに隠された四大元素の霊(四大霊、エレメンタル)たちと意思疎通がはかれ、そうするだけで音と色の神秘をきわめ、よってなぜ、何のために雨が降るのか、地球の中はうつろか否か、何が風を吹かせるのか、何が光を輝かせるのかわかり、さらに何よりも大きな功績ーー自然界の真の基盤の知識をほのめかすこととして、時間を刻む目盛りの極限には何があるかを知り、周期の意義と期間を知っている。

 しかし、新聞を読み「現代の発展」を信じている一九世紀の忙しい人に、もし人類の兄たちはこうであると主張したならば、なぜその方々は歴史に名が残っていないし、人々を集めなかったのか、と尋ねられないだろうか? それへの返答としては、私が書いたものよりも、次に示すA・P・シネット氏の、しばらく前に出版したものの方が良い。

 

 「差し支えなければ最初に、世界の歴史に何らかの印を残した《同胞愛》の当然の失敗と関連したことについて論じよう。彼らはその驚くべき利点により、あらゆる民族のより啓蒙された精神の持ち主たちの中でも、際立った一部の人たちを、彼らの流派に集めることができたはずだとあなたは考える。彼らが著しい跡を歴史に残せなかったと、どうして言えよう。彼らの努力と成功と失敗を、あなたはよく知っているのだろうか? 裁判で彼らを糾弾でもしたというのか? 興味本位で詮索する人がスパイ行為できぬよう、たゆまずすべての接近可能なドアを閉めたままにしてきた人たちの証拠を集めることが、一体あなたの住む世界にできただろうか?彼らの成功の正確な状態はつまり、監督されることや妨げられることはない。彼らは何をしたかを自ら知っている。その範囲外から見てわかることは結果であり、その動因は見えないよう隠されている。それらの結果を説明するために、さまざまな時代の多くの人が、神々の介在、特別な天意、宿命、吉運、星々の好ましくない影響力についての仮説を考え出した。世に言う歴史上の時代の中で、あるいはそれ以前に、我々の先達が型にはめて鋳造された出来事や[作成された史実]ではなかった時はなく、絶えず不変に歴史学者にゆがめられ、同時代の偏見に適合させた事実にされない時はなかった。連続ドラマの英雄的人物が、時には指人形で出るなんてことがあっただろうか? 我々は何やかやの危機に際し、全体として国々を引っ張っていくことができるふりをしたことは一度もなかった…世界の宇宙規模の関係の、一般的な自然の成り行きはあったとしても。周期は必ず循環する。心や精神の光と闇の周期は、昼と夜と同じように続いて起こる。大きいユガ(時代)と小さいユガは、物事の定められた順に従って完成されねばならない。そして強大な潮流に運ばれる我々は、小さいほうの流れのいくつかを、方向づけたり変えたりすることしかできない。」

 

 真の哲学がしばらく姿を消すのは、周期の法則に基づく、精神的歴史の暗い時代であるが、同じ周期の法則が、太陽が現れ人の心がそれを目にするのと同じ確実さで、その真の哲学を生じさせる。けれども、他の仕事が仲間たちの助力を必要とするのに対し、ある仕事は大師だけが遂行することができる。真の哲学を保護するのは大師の仕事だが、それを再発見し広めるには、仲間たちの助けが必要となる。我々の兄たちは、どこで真理つまり神智学が見つけられるかを繰り返し示した。そして世界中で仲間たちが、より広く流布・普及するために活動し、実を結んでいる。

 人類の兄たちは、進化における前の段階に完成された人たちである。この前の段階の時期は、年数に関しては現代の進化論者に知られていない。だが遠い昔に年老いたインド人だけでなく、偉大な人たち、ギリシアの秘教の最初の劣化しない純粋な体をまとった人たちにも知られていた。「大いなる未知」から可視の宇宙が出てくる期間は、永遠に現れては消え、沈黙および休息の期間と交互に存在し、再び未知へと戻る。これらの交互の波の目的は、完全な人間を作り出すことと、魂の進化である。そして波はいつも人類の兄たちの数を増やすことに立ち会うのだ。人々の中の最も幼い者は、それらを昼と夜、目覚めていることと眠っていること、誕生と死として思い描く。「なぜならこれら二つ、光と闇・昼と夜とは、世界の永遠の手段なのだ」

 どの時代にも、どの一国の完全な歴史にも、これらの力ある、慈悲の人たちが、異なる呼び名で与えられている。彼らはイニシエート、アデプト、マギ、秘儀の祭司、東洋の王たち、賢者、兄弟たち、その他いろいろに呼ばれている。サンスクリット語にそれに当たる、人類に完璧に関係する語がある。それはマハートマ(マハトマ)である。その語はマハ(大)とアートマ(魂)が複合して一語となっている。よって、その意味は大いなる魂であり、すべての人が魂であるから、マハートマをマハートマたらしめるのは偉大さである。マハートマという用語は、H・P・ブラヴァツキー夫人が師匠(マスター)たちから知識を与えられ、しばしば言及するようになって、神智学協会の中で広く用いられるようになった。初めのうちは彼らはただ人類の兄たちとして知られていたが、後に多くのインド人が神智学運動に押し寄せて来ると、マハートマという名称はさらにその背後の、膨大なインドの伝承と文献にまで広がった意味に使われ始めた。神智学協会の恥知らずな敵たちが何度も、その名称すらも考え出したものであり、だからそのような存在はインド人の間にも、文献の中にも、知られていないと言った。しかしこれらの根拠のない主張は、哲学的影響力が主な神学の誤った教義を完全にひっくり返すといけないので、信用を落とさせるためだけにでっち上げられたものである。すべてのヒンドゥー教の文献に一貫してマハートマについて伝えられているし、インドの北の地域ではその用語は一般的に知られているからだ。あらゆるヒンドゥー教の分派から尊ばれ、西方の都市に高貴で美しいと認められた非常に古い詩『バガヴァッド=ギーター』には、このような一節がある。「このようなマハートマは見出し難い」

 だが、特定の名称に関するすべての論争にかかわりなく、上記に述べたすばらしい知識を持った肉体ある人間はいつも存在したし、たぶん今日にも現存することの証拠と十分な議論がある。昔の秘教は絶えずこのことに触れる。古代エジプトには偉大な王ーーイニシエート、太陽の息子、偉大な神々の友がいた。古代人の思想を見くびる習慣が存在するが、その古代人の思想の中で、今日の人々は見下されている。アブラハムを敬意を表して「神の友」と呼ぶキリスト教徒でも、エジプトの統治者たちが同じ「神の友」であるという考えを、幼稚に仮定した気高さと称号にほかならないとして蔑み、嘲るだろう。しかし真実は、これらの偉大なエジプト人たちはイニシエートであり、他のどんな段階や仕事のロッジもすべて包含する、一つの偉大なロッジのメンバーたちであった。後の時代のエジプト人たちを拒否する者たちは、当然、先祖を見習ってそうしているに違いないが、それはもう一度、ドグマと聖職者が興隆して真の教えが覆い隠され始める時である。

(つづく)

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目次

CONTENTS

 

序文

新版の序文

1章 神智学と大師たち

2章 法則概略

3章 地球連鎖(地球チェーン)

4章 人間の七本質

5章 肉体とアストラル体

6章 カーマーー欲望

7章 マナス

8章 輪廻について

9章 輪廻転生

10章 輪廻の論証

11章 カルマ

12章 カーマローカ

13章 デヴァチャン

14章 周期

15章 種の分化ーーミッシングリンク

16章 霊的な法則、力、現象

17章 心霊現象と心霊主義

 

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新版の序文

 かれこれ22年ばかり前に『神智学の海』の初版本が、著者のW・Q・ジャッジにより出版された。あれから神智学を扱う本が何千も、ほぼすべて神智学の優れた学徒によって出版されたが、残念なことにどの本も、一般人には知識と理解と明白にわかる範囲を提示していないーーそしてさらに残念なことに、これらの現代の著者たちがとった方法は、「人生の科学」の師匠により書かれた神智学の詳述が存在するという事実を覆い隠すこととなった。

 著者の序文が示すように、この本は一般の読者が理解できるように書かれた。しかし、わかりやすい語句が読者を誤解させて、この著作が初歩のものであると思わせることがあってはならない。一つ一つの言説の中に、そして裏側に、不注意で皮相な見方の人は理解できない深い意味がある。これは実に神智学の基本的な教えを簡略化した教本で、『シークレット・ドクトリン』の研究者たちに、かの大作の本当の簡約版として知られ、その理解のすばらしい助けとなると理解されている。そのような、ただ一つの目的にかなうよう考慮され書かれたものなので、神智学の全学徒に本気でお薦めする。

 歳月の経過はこの小さな本の真価を示すのに役立っただけでなく、ジャッジ氏の師匠たる身分を示すこととなった。彼が書いたものはすべて、真の神智学徒の全員に深い知識を印象づけた。一般の読者でさえ、「知っている人」だけがそのように神智学を、周囲の環境や、日々の人間存在の状態に応用することができたであろうことを、気づかないはずがない。

 しかし、ジャッジ氏により刊行された本はほんの少ししかない。とはいえこれらの少しの本が、神智学的生活の中で学徒に最も助けとなるのである。『助けてくれた手紙』("Letters That Have Helped Me")は、それぞれ小さな二巻から成る、学徒に宛てた手紙を集めた本で、編集者によるコメントも載っている。『東方からの響き』("Echoes From the Orient)は、全六四頁ある、神智学の教義の広い概要である。『バガヴァッド・ギータ』("The Bhagavad-Gita")は翻訳もので、他の逐語的な翻訳よりもずっと良く、明解である。『パタンジャリのヨガ・スートラ』("Patanjali’s Yoga Aphorisms")は、魂とその力についての太古の書で、この書から近代心理学は多くを学んだ。それに加え、ジャッジ氏は哲学の実際的応用について数多くの論文を書いた。それらは機関誌 "Theosophy" の中に見られる。 

 真剣な学徒は、H・P・ブラヴァツキーとW・Q・ジャッジの著作を合わせて学ぶとよいだろう。それらの著作から、純粋で簡潔な神智学が学べるだろう。両者の間に完全な一致と、知識の共通性があるのがわかるだろう。そしてこの二人の使命と性質に、より完全に感謝することだろう。

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序文

 この本は、一般の読者に理解できるように神智学の内容を書いた試みである。太字の著述は著者の知識に基づくものだが、同時に著者だけがそこに書かれたことに責任を負うものであることをはっきりと理解されたい。神智学協会は、本の中で述べられているいかなる事にも縛られていないし、著者の書いたものを認めないであろう、会員でありながら少しも良い神智学徒ではない人たちとも、関係ない組織である。各章に漲っているかもしれない確固たる確信の声色は、ドグマティズムや奇想の結果ではなく、体験と証拠に基づく知識から生じているものである。

 神智学協会の会員は、ある説や教義が詳しく論じられていないことに気づくだろう。それは、そうした説や教義がむやみに広がることなく、そして無用な論争を引き起こすことなく、本で扱われることはあり得ないからだ。

 その意図の主題は論じられていない。あの力や能力は、本質が隠された、精妙な、見いだしえないもので、結果として見ることができるだけだからである。それが完全に無色であり、背後に隠れた欲望に従って道徳的な性質が変化するので、また私たちに知識がなくても頻繁に作用するので、そして人間界より下位のすべての界に影響を及ぼすのであるから、「霊」と欲望から離れてそれを調査しようと試みることでは、得られるものはないのである。

 この本がオリジナルなものであるとは主張していない。著者は本の中の何一つ創作しなかったし、何一つ発見したのでもない。ただ、教えられ、立証されていることだけを扱っている。

 

ウィリアム・Q・ジャッジ

1893年5月 ニューヨークにて

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